悩まない男

グレに惑わされる莫迦な男の鶸茶。でも可愛い(笑)

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森 12(スレートグレイ 10)

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まだ「家」が家としてまっとうに機能していた頃合の話だろうこれは、と鶸茶は昧旦の夢をごつごつした指で指し示しうっすら笑う。
夢のなかであってもさて自覚をもって笑えるものなのだと驚きをもって笑う。
もう三つも季節を遡れるほどの以前にもなるだろう、蔓状のうねうねとねじれもつれる奇天烈な建築群たる、濃紫の森に囲まれた二藍のこの家を、ある一夜、猛烈にして異様な濃霧がだしぬけに襲来した。
しかしながらいかにねじまがっていようが宏漠たろうが家は家だ、家となれば屋内にきまったものだ、どうして建物の内部にまでかくも煙霧が綾にもたちこめるのかまったく合点がゆかぬ。
微小の水滴が溜息めいてはてしもなくもうもうと湧いて出るなかを、住人たちはひとか魔かといった心許ない足どりでふらふら青白い影を引き連れ彷徨する。
音はない。
水滴がそのちいさな口でそっくり飲みこんだように森として音はいっさい聞かれない。
屋内にまで霧がたちこめられてはひとりおとなしく部屋にこもっているのはかえってたまらぬのか、みながみな魂の鼻先をつままれたような顔様で影となりまた蘇っては渡殿を、複雑怪奇な連結だらけの廻廊を、ながくのびる階をとぐるぐる泳ぐようにさまよい歩いた。


さて鶸茶はといえば、なにがいったいこの男を呼んだのかわからない。
ただでさえこの霧だ、情けなくも方向音痴を標榜するこの男がそれで自分の巣穴にもどれるのかと永のつきあいである黄丹でもあれば揶揄もしたろうが同僚はあいにくそばにおらず、自問自答ですらあっけなく鶸茶自身に一蹴された。
呼ぶものがあるのだ、しかたなかろうとかれは唇をとがらせた。
常から向かったところのないぬっとそびえたつ真北の塔を背後にひかえる、鶸茶たちの居住空間からはずいぶんとへだたった、そこが陰鬱なエントランスだった。
このいささかひとけのない内部への扉口は、これをして竜の末裔たるものの家と呼ぶに憚られるほどあまりにも装飾性というものを放擲していた。
エントランスの色調は塗りこめたように皆式鉛色、この鳥羽口を飾るのはただそれがなければ実質困るだろうからとぽつんと据えられたにすぎぬあじもそっけもないランプ台だけ、なんともかんとも寒々しいかぎりだったが、いまにして思えばそれが二藍という少女のこもるには似合いの空間だった。
あいかわらずまえもうしろも煙幕だらけでろくに視界がままならない。
霧はこの家をまるごと喰ってかかってでもいるのかとぞっとする。


エントランスをぬけ階をあがる。
ながながとつづく廊下が左右に展開している。
ほら鶸茶、と通廊のさきにたたずむそれがひとりの男だ、霧のせいでかろうじて図抜けて背の高い男だということしか判別できない。
「ほら、鶸茶」と黒紫色にひびく美しい声がかれを呼ぶ。
「おまえの求めるものならここにいる。ここまでこい、鶸茶」
おれの求めるものをおまえは知っているのかと、夢寐にあっても鶸茶は可愛げない口をきいた。
おまえはだれだ? この家でおれがいちどでも見かけたことがあったか。
いや、おぼえがない。おまえのような規格外の長躯などおれはこれまで見たことがない。
おまえがわたしを見るのじゃない、わたしがおまえたちを見るのだと、黒くたたずむ能声の男はひっそりとした笑いをかえした。
このものを愛する人間ならわたしはだれでも愛してやる。
いや、憎めばいいのか? よくわからない。
わたしにはそういった感情がよくわからないんだ。
このもの。いったいあんたはなにをいってるんだと、いっこうに晴れない霧のむこうへむけて鶸茶は夢寐にふさわしい沈んだ声をさしだした。
男がこちらにこないのなら鶸茶がゆくしかなかった。


微睡みのうちで歩く。いや石畳の床ならうねりなどしていない、平坦とした確固たるものだと鶸茶はおかしさがまさりちらと口のはたを釣る。
そうだ、いまや音だってもどってきている。
おれが石畳を歩く音がちゃんとおれ自身の耳殻にとどいているじゃないかと思った。
なあ、ここまできてやったぜとやがて男のまえにかれは顎をつきだした。
鶸茶は6尺半あるいかつい大男だったが、いま眼前にたたずんでいる男ときたら鶸茶をずんとうえから見おろしていたからほとほと呆れた。
ながく癖のない漆黒の髪を尻尾のようにひとつにたばねている。
根元をかざるのはぽちりとちいさな紅玉だった。
なにかを一条秘匿している妍容、ひどく顔佳人だが不均衡な膚と血色、しかし声は美しい、深い谷間の底の底にひびく風のように美しい。
「鶸茶」男はいった、「まだ二藍を知らない鶸茶?」
なぐられたように鶸茶のおもてがゆがんだ。

(「森 13」につづく)

| スレートグレイ・シリーズ | 2009-11-01 | comments(-) | TOP↑

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森 11(スレートグレイ 10)(15禁)

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ふらりと踵を返すやいなや、森の鳥羽口を目指しふたたび道なき道を男はざくざく拾いはじめる。
身を翻したとたんいまやなじみとなった異臭をともなう目眩にずぶりと引きずりこまれそうになったが、ひとつ息をつきようようそれを持ちこたえた。
はるかに鳥の目をもって上空を飛翔せぬでもじきここを抜けるだろうことは、鶸茶にも裏葉にもおおよそわかっていたことだ。
もうすぐだ、森をぬけ、さらにはちいさな谷間をひとつ越してしまいさえすれば、あとは真朱の家(それはいわずとしれた陋屋らしかった)までは目と鼻のさきだということだった。
真朱とは裏葉にとっての師でありまたかつての保護者でもある、27の裏葉たちよりちょうど10歳年長の薬師である。
これだけの技倆を誇る裏葉の師だというのであればよほどの音に聞こえた人物だろうとは想像に難くないが、浅聞にして真朱という名を鶸茶はこれまでいちども耳にしたことがなかった。
10歳年上といえば、では黄丹と同い年かとすでに遠く距たってしまった同僚のやさしいおもざしを瞼のうらに悲しく思いうかべる。


これぎりここを出てゆくと訴えた黄丹のしかつめらしい卵形の顔、怒気などという鼻白む感情をただのひとつも突きつけたりなどしないでくれた男、おだやかな男、裏葉といっしょに家を出るといったらぽろりと悋気をしめした可愛い男、鶸茶のからだを手をつくし愛してくれた男、スレートグレイに来いとたったひとこと鶸茶にいい残した年長の男だった。
たしかにおれは真朱の家経由でかのスレートグレイにむかってはいるよ、黄丹、と鶸茶はひとりごちる。
東の、東の、さらにも東のスレートグレイだ。
あんたに告げたとおりこうして力をうしなった技者をつれ、よろよろ森を彷徨っては炎を起こし、獣を殺し、水を舐め、またよるべない露臥を否応もなく貪っている。
おれのことを心底嫌っているだろう技者、なんとも冴え冴えとした痩躯、こちらによこした微笑といったらじつに片手で余る、しかしおれといってはそれ以上に筋がかちかちにこり固まってしまったようで、みごとに笑顔というものを忘却してしまった。
はやくスレートグレイにたどりつきたい、一刻もはやくこの剣呑な術師と別れてしまいたい、こいつといるとおれはいらぬ情感をこれでもかと心の臓に逆立てさせられる。


黄丹、いまにして思えばあんたがどれだけおれを甘やかしてくれていたかよくわかる。
おれは、だめだ、と鶸茶は思う。
おれはもうこの男とやっていける自信がないのだとかれはすでにして千回もつぶやいたつぶやきをまたくり返した。
黄丹、あんたのようにおれをやさしく甘やかしてくれるやつでないともういっさい破断しか生まない。
この痩せた術師はおれにはどうあっても露呈のできぬあるひとつの秘密を温めているらしい。
いくどかその尻尾をつかみそうにはなった、しかしついになにもわからずじまいだ、暴露などはない、あまりに憎たらしくて目眩がする。
隠し立てをされるのは非常に勘に障るが、じっさいのところ、自分の手でそれを暴くのがいささか怖ろしくもあった。
黄丹、あんたに会ってこれでもかというくらいに甘やかされたい。
もうなにも考えなくていいんだと瞼と頸とに温かい掌をあてがわれ、からだを抱いてもらいたい。
あんたの気持を十全に知っているおれだもの、卑怯このうえないことなんか百も千も承知だ。
だがもう卑怯といわれようがなんだろうが、おれはこの裏葉という男のそばにいてこれ以上苦しい息を魚のように繋いでいたくなかった。
感情がざあざあ波打つからだ。
しかしもちろん鶸茶はその道を選択できない。
あたえられるそれが苦痛であればあるほど、ぎりぎりまで追いつめられれば追いつめられるほど、その由たる男を目の端に絶えずおいておかなければ日も夜も明けないだろう。


二藍を岩塊のなかへ永久にとどめてしまった男の、その当該のちからを鶸茶はどれだけ憎み、かつ手に入れたいと願ったかしれない。
もう考えていたくない。黄丹、と胸底でつぶやく。
またあんたと寝たい。交わりたい。
そういうときっとあんたはおっとりした容のなかに困った表情をこしらえるんだろう。
あの夜、廻廊でからだを穿たれたとき、気持いいのか、と訊かれたからすぐさまいいと答えた。
まったくのところそれは嘘ではなかった。
が、それを耳朶にしたときの黄丹の困惑した顔様を鶸茶はぼんやりとだが覚えている。
黄丹の求めようとしている甘くて苦しいものと鶸茶のそれとはむろん一致をみなかったから、黄丹には悲しいだけ、承知していて鶸茶のからだをもらったのにひどくつらいだけ、おまえが感じてくれている、大腿がびくびくと痙攣しているからよくわかる、それはいまはとてつもない快楽であるかもしれないがそれだけにとどまらぬ形のないあるものが存在する、それがほしいんだよと鶸茶の温かい体内で弾け果てながらつぶやいた黄丹がいた。
おれにはそれは高望みなんだろうと黄丹は濡れない涙を流した。
甘くて苦しいもの、それはすぐ手近に、似たような顔をしてころがっていたかもしれない。

(「森 12」につづく)

| スレートグレイ・シリーズ | 2009-10-31 | comments(-) | TOP↑

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サイアート(銅貨)様より〈グレナーデン〉のイメージイラストをいただきました。

サイアート(銅貨)さんから数日前にいただいておりました。
にもかかわらず残業つづきの日々に負け、記事アップができずにいたのです。
サイアートさん、ごめんなさい〜。
やっと、やっとアップさせていただきました!


グレナーデン1全身

グレナーデン2アップ  


現在更新中の「スレートグレイ・シリーズ」主役のひとりである〈グレナーデン〉のイメージイラストです。
半裸です、優艶です、女王です。
あ、女王といっても日々ムチを行使するあの女王様ではありません。
一般的にいう王、というものにたいしての、女王という意味合いです。
なんかすごーく繊細そうできれいなグレですけど、いいんでしょうか。
わたしが書いているのは歩く下半身男ですよね。
鬼畜ですよね。
倫理観ないですよね。
でもサイアートさんは「結構繊細で、小心者では?」とおっしゃってくださいました。
また、「純粋さ、優しさ」とも……
ありがとうございます。
これからたくさんこの男のことが書けたらいいと思っています。


グレは黒髪だとさいさんわたしは小説内ではいっています。
ですが「黒」といってもひとの数だけ「黒髪」があるのです。
それをこの絵の「黒髪」を見ていてあらためて考えさせられました。
わたしはこれまであまりにも考えなしに、黒髪だ黒髪だとごく単純に放言してきたのかもしれません。
この絵の、白(灰)をたっぷり含んだ〈黒髪〉がとても好きです。
じっと見つめていると眩惑されるようです。
どこかにつながっています、なにかを秘匿しています。
その厚みは圧倒的です。
そして彼自身は、自身を飾るそんな美しい髪になど一顧だにしない、そんな人物であってほしいと思います。


サイアートさん、お忙しいところ、ほんとにどうもありがとうございました。


サイアート(銅貨)さんのブログへはこちらからどうぞ。
サイアートさんのブログ(小説&イラスト)
銅貨さんのブログ(イラスト)


【スレートグレイ・シリーズ】についてはこちらから。
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| イメージイラスト(頂きもの) | 2009-10-29 | comments(-) | TOP↑

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森 10(スレートグレイ 10)

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じつに驚くべき術師のことばに、ごく尋常の人間にすぎない鶸茶の鈍色の双眸がぱたぱたと子供のようにまたたいた。
できたって? 鳥のように?
あまりに無心な驚倒ぶりをかくも真っ正直にぶつけられ、この男が自分を癇性に思っていることも忘れ裏葉は知らずふわりとやわらかい微笑みを返した、
「鷹を呼ぶんだ。あれにわたしのこころを移してはいくども上空を旋回したよ」
こころを移す、と術師のことばを鶸茶は呆然とくり返す、
「それは……鷹にだけ?……」
「鷹にだけだ。わたしはね」
「ということは、術師によってはそれ以外にさまざまできるやつもいたということか」
技者を奴あつかいされてかすかに眉が吊り上がったが、まあこのさいは大目に見てやろうと決めたらしい。
裏葉はうなずくと、


「四つ脚の獣にも、または植物にでもね。むろん長時間の移しは危険だが」
あきれはて鶸茶はもう間の抜けた相槌をうつことしかできなかった、
「はあ。植物にね。
あんたらは、なにか? よほどの戯けか? 莫迦者か?
そんなことをしてぜんたいちゃんともどってこれるってのか?」
戯けだというのは、と、どこか夢見るように術師は男のことばをやんわり引き取る、
「その通りだろうね。だから長時間の移しは危険だといったんだ。
わたしは植物にこころを移したことはないので断言できるものでもないが、それができる仲間のひとりから聞いたことがある。
移しているうちに、じわじわと境界線があいまいになっていってしまうらしい……
わからないでもない。植物などよりはよほど我々に近いはずの鳥獣にこころを移していてさえ、よほど意識をしっかり保っていないと容易にあちらがわに引きずられそうになる。
それは、暗くて、どうにも底がない」


やめてくれと鶸茶は怖ろしげに灰色の頭をふった、
「あんたたちがそんなことまでできるとは知らなかった。
なるほど魔魅とも魔変化生の者ともいわれるゆえんだな。
しかしその話を演繹していくと、はては他人にもみずからを移せるようになるということにならないか?」
天からのあたたかな木漏れ日を満腔に受け、痩せて朽木のような元術師のすがたが真っ向から鶸茶に対峙している。
遠くに鳥が斜めに啼き遮り、近くこどもの笑い声のような風のさやぎがふたりを囲む。
しかしさきほどまではそれでもかろうじて微笑が見え隠れしていたものを、いまでは気味の悪い不均衡な無表情さがそのこけた頬に仮面めいてぺたりとはりついていることに、鶸茶は気づいた。
またなにか自分はこの苦悩をいだく男の垣根を見いだしたのだと、鶸茶の代赭のおもてにこっそりと笑いに酷肖したものが浮かびあがったが、しかし唇のあいだから歯がむきだされていたのだからそれはけっきょくのところ笑いには逢着しなかった。


「あんたはもう……」と鶸茶は歌うように、
「すっかりちからを喪っちまった術師だからな。
もう自分にはなにもできない、そういいたいんだろう?
だけど、できていたときもあった、ちがうか?
あんたはおれたちの捨ててきたあの家の、まずもって第一等の術師だったんだ。
ほかのやつらには不可能かもしれなかろうが、あんたまでそうだったとは思いにくいな」
できていたこともあったかもしれない、とようやく死人みたいな声が渺々と鶸茶の耳翼に届いてきた。
「ひとのこころに自分のそれを移して? そこで精神をいじりまわしたわけか。
自分の都合のいいようにあいてのそれを制御したのか。
移されたほうの人間にはとうていたまった話じゃないな。
さんざんぱらなにをされようが、その人間にはまるで覚えがないのか」
「わたしはそんなことはしない」
「するかしないかはどうでもいい」両脇にだらりとぶら下げていた2本のながい腕を、じれったそうに鶸茶はもちあげた、


「いいか。あんたたちが魔魅だ、魔変化生だとあたりまえの人間たちにいわれつけているのを承知しているか。
魔のちからを使役するものは、いつしか魔そのものにすりよっていく。
しまいには魔そのものに成り変わっていっちまうんだ。
あんたたち技者は、むろんのことその陥穽をじゅうじゅう認識したうえで、その強大なちからを行使しているんだろうな」
「認識している」熨斗目色の両眼の男はぽつりとつぶやきを落とした。
なんとも暗い語調だった。

(「森 11」につづく)

| スレートグレイ・シリーズ | 2009-10-25 | comments(-) | TOP↑

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森 9(スレートグレイ 10)

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安堵の吐息をひとつのがし、牝鹿か、と鶸茶はつぶやく。
暖かいこの季節のこととて獣の体毛はいまだ褐色の地でおおわれ、やわらかな背には白斑がいくつもちらばっている。
草食獣らしい悲しげな両眼が驚きと怯えでぴたと見はられ、おろかにも人間たちのまえにだしぬけにあらわれてしまったことに身をすくませ、凍りついてそこから一歩も動けずにいた。
悪いな、と無表情にひとこと言いすてると、おとなしい獣にむけて鶸茶はむだの一切ない動きで長槍を一閃させた。
待てとおしとどめるいとまもあらばこそだった。
さあとどめをさしてくれといわんばかりに彫像よろしく固まっていた獣の胸倉へ、過たず的確に鶸茶の凶器が深々ともぐりこむ。
声もたてずにそれはがくりと倒れ臥した。


鶸茶、とかれらが出会ってのちはじめてこの術師は男の名を呼んだ。
「殺したのか」
語調ににじむのはかくしようもない咎めだてだったから、この元兵士は応接に悩みしばしことばをうしなってしまった。
それが? と聞き返すのすらどうにもばかばかしくて、なまあたたかい血に彩られた長槍を手にしたまま、うっそうと唇をつきだす。
しかしとうとうむっつりと、「殺さずにどうしろというんだ」
「これは鹿だ。それになんの抵抗も示していなかった」
裏葉はつぶやく、つまり鹿は神の使いとされるからといいたいのだろう。
とどめをさされて横たわる美しい獣をしずかに見おろし、鶸茶は、
「神様に会うまえに日乾しになるのはおれはいやだよ。
それともあんたはそっちを選ぶというのか」
術師はなんとも返さなかった。
いいたいことはまず山ほどあったろうが、「そちらを選んで死を全うする」と高言するのはさすがに憚られたのだろうとやれやれと鶸茶は肩をすくめる。
それほどの莫迦者でなくてよかったと嘆息した。


「こいつを殺した。それはおれたちの血肉に変わる。
喰って、眠って、また日を迎える。
それでまたやっと生きのびていける。
自分はそうではないなどとはいわないでくれ。もっとも……」
と鶸茶はしとめた獲物のよこに膝をつくと、
「あんたにはいつだって死にたがりの気分が揺曳してるらしいからな。
ひとりで死ぬのはかまわないが、おれの目の前ではそう勝手はさせないとじゅうじゅう覚えとけよ。
おれがいいというまでは、おれはあんたを絶対に手放さない。
いやだといおうが生きて佇んでおれの両目をのぞかせる。
しかしほとほと愛想がつきたらそのうち解放してやるよ。
こんなところまで引っぱってこられてあんたにはまったく中っ腹らしいからな」
かすかに裏葉は頸をふった。
延び放題のくせのある前髪が、乱れて痩せた頬にはらりとかかり暗い影をつくる。
怒ってはいない、と力をうしなった技者はしずかに述懐した、
「怒ってなどいない」


ふんと元兵士は唇をつきだした、いないが『なにか』あるんだろう、あんたはおれになにを隠匿している、それを暴いてもいいのか、おれはそれを追求してもいいのか?
しかし鶸茶は口にしては、ただ、
「追っ手でなくてよかったがね。
しかしこれがよかったんだか悪いんだか」そうつぶやくにとどめた。


明けて日は高々と中天にかかり、速歩で歩みをつづけながら木漏れ日のさしこむ幾層もの木々を振り仰いだとたん、くらりと目眩をおこし鶸茶はぱたりとたちどまった。
背後からおとなしく付き従ってきた裏葉はちらと片眉をあげる。
連日の寝不足をおして歩きづめなのだから目眩のひとつも起こすだろう。
交睫し、また開き、鈍色の瞳をあげると、いったいどれだけ進んだんだかわかりゃしないなと元兵士はぶつぶつといった。
「上空からこの森を、鳥みたいに俯瞰でもできればいいのに」
できたよとぽつりと術者はいった、「かつてはね」

(「森 10」につづく)

| スレートグレイ・シリーズ | 2009-10-24 | comments(-) | TOP↑

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